医師会の沿革 【 -その歩みと現在- 】

(1)沿革

  1. 明治20年(1887年)6月10日群馬県開業医組合吾妻郡支部設立。
    明治20年4月開業医規則の発布により、同年6月10日中之条町清見寺に於いて第一回会議を開催し、ここに開業医組合を設立し上記のごとく呼称した。これが現在の吾妻郡医師会の濫觴であり、以来今日まで実に130年の歴史を刻んで来たことになる。
  2. 下って明治34年(1901年)4月本県令第35号を以て初めて医業規則が発布されたのに基づき吾妻郡医会を設立し、同年11月群馬県連合医会創立があり、当会はこれに加盟した。
  3. 明治40年(1907年)2月24日に吾妻郡医師会を設立した。この経緯は次の如くである。
    明治39年(1906年)11月内務省令による医師会規則が発布され、群馬県令を以て医師法施行細則が定められ、同規則に基づいて郡市医師会が認可された。そこで明治40年2月~同年4月の間に13の郡市医師会が誕生した。即ち、高崎市、利根郡、群馬郡、碓氷郡、新田郡、前橋市、吾妻郡、山田郡、勢多郡、邑楽郡、佐波郡、北甘楽郡の各医師会である。吾妻郡では明治40年2月24日設立総会を開催、会則の議定、役員選挙等を行った。現名称の「吾妻郡医師会」はこの時を以て嚆矢とする。
  4. 大正8年(1919年)医師法改定により医師会の強制設立を国が命じたのにもとづき改組が行われた。吾妻郡医師会の名称はそのまま存続し、樋田定四郎他4名が創立委員となった記録がある。
    この年の改組が、その後連綿として今日に至る吾妻郡医師会組織の基盤になったと思われる。
    明治4年(1929年)発行の「群馬県吾妻郡誌」の保健衛生の章によれば「本郡に於ける医師は大正13年末に於いて24名にして大正8年9月29日医師会令に基づき郡医師会を組織し大正8年12月26日認可され、業務の秩序、風紀の保持、医事、衛生の進歩を企図し、一面には町村医学校医たるの委嘱を受け、何れもその担任町村及び学業衛生の業務に鞅掌す」云々とあり、また吾妻郡医師会については、その開業医組合よりの歴史を略述し、続けて「この長年月に亘り医事衛生の進歩に貢献せしこと甚少ならず衛生講話会を開催し或いは衛生展覧会の開催により衛生思想の普及に努力し、、済生会との連絡により無料施薬を行う等世を裨益せるもの多し。役員は会長一名、副会長二名、理事二名、評議員五名を置き会務を鞅掌す」と記している。簡単な文章であるが、大正から昭和初期の本郡の医療状況、医師会活動の一端を窺い知ることが出来よう。
  5. 医師会の解散(廃止)と支部への改変。
    あの不幸な大戦の最中の昭和17年(1942年)に「国民医療法」が発布された。大戦中、あらゆる団体組織に圧力が加えられ、国家目的即戦争への協力が強化されつつある時に施行された本法は、医療関係者を強力に戦争遂行の一途へ即応させようとした法令であり、「国民体力の向上に関する国策に協力すること」を強制したものであった。
    このように、国内のあらゆるものが戦争遂行という至上命令に結集されるに及び、医師会も国 - 県 - 郡市と一本化の統制組織を構成せざるを得ず、吾妻郡医師会を含む13郡市医師会は、群馬県医師会の支部に改変された。吾妻郡医師会も解散(廃止)し、群馬県医師会吾妻郡支部として衣替えしたのである。これによって創立以来、数十年の長い歴史を持った吾妻郡医師会はその歴史を中断された。とはいえ、構成メンバーが変わるわけではなく、地域に根づいた医師達は引き続き各々の持ち場で与えられた転職に勤しんだことは言うまでもない。